キリシタンを貫いた、ご長寿武将~高山右近~
こんにちは。もうすぐみなさんが待ちに待っているGWが始まりますね。企業や団体によっては10連休をされる方もいらっしゃるとか・・・。誠にうらやましい限り。でも!3連休かな?いやいや、1日しか休み取れない方も大勢いらっしゃるはず。お役に立てるかどうか?な高槻探索の4回目です。さて。本日私がお届けするのは、高槻市ではトップクラスの有名人。彼の次にくる有名人はきっと「織田信成さん」か!?
高槻探索で絶対に切り離せない、キリシタン大名「高山右近」さんでございます。
高槻市が出している「高山右近」のパンフレットによると、~右近がキリスト教と出会ったのは永禄7年(1564年)12歳の時。~(高槻市産業環境部産業振興課 発行より抜粋)と書かれています。という事は・・・、1564年から12引くと、1552年生まれと言う計算。1549年(ゴロ合わせ的にはイゴヨク広まるキリスト教とかなんとか)にザビエルさんの来日よりも少し後に生まれたんですね~。なるほどなるほど。で、お父さんの高山友照さんの影響を受けて、12歳で洗礼を受けたとか。
そして、21歳の時に高槻城主となります。
当時の日本はご存知、戦国時代。急速に変化する下剋上の荒波を泳ぎ切る右近さん。熱心なキリシタンである事に加えて、お茶の世界や築城などの分野でも才能を発揮。織田信長や豊臣秀吉の元に仕え、一昨年「2代目ひらパー兄さん」のV6岡田君が演じた、黒田官兵衛にも入信をおススメしたとか。政治的な能力もお持ちだったのですね・・・。乱世を生き抜くためには、今で言う突出したマルチな才能が必要だったのかもしれませんね。
しかし時代はすすみ、最初は友好的に日本に広がっていた「キリシタン」や「南蛮文化」に次第に影が差し込みます。右近が高槻城主の頃、当時高槻の人口が25,000人のうち、7割強がキリスト教信者となり、教会もたくさん建設されたそうですが、一方で、私が前々回に行った「上宮天満宮」では~高山右近に焼かれた~と言い伝えられていたり、高槻城近くの「野見神社」では~高山右近に社領を没収された~と看板に書かれていました。右近さんが指示したかどうかは定かではありませんが、事実として当時の高槻市、茨木市から多くの寺社が一旦姿を消したそうです。
その後キリシタンや南蛮文化への影は年を追うごとに暗く、濃く、そして為政者たちの敵となっていきました。とうとう1587年秀吉による「バテレン追放令」1613年徳川幕府による「禁教令」そして、鎖国へ。歴史が動きました。右近、国外追放です。しかし、右近は大名の地位を捨ててまでも、最晩年をフィリピンで過ごすことになっても、生涯信仰は変わりませんでした。歴史の教科書に載る位、決して消えなかった彼の信仰心と情熱は、400年後の今年1月にバチカンから正式に「福者」として認定。ローマカトリックも認める殉教者となりました。1月23日の新聞に載りました。因みにこの記事は、高槻城址近くにある「しろあと歴史館」で見る事が出来ますよ~。
織田信長が「人生50年~」と歌ったその年齢よりも10歳も長く生き、様々な人々に信仰の大切さを教え、説いた大名、高山右近。最初、61歳と聞いてその長生きさに驚きましたが、それ以上に高山右近の人生に驚きました。とにかく、スゴイ人だったんですね。
阪急高槻市駅から南へ、高槻城址に至るまでの道々には様々な高山右近と高槻城を偲ぶ資料がたくさんありますよ。阪急沿線「観光あるき」モデルコースや高槻市でも観光ボランティアガイドさん(事前申込制。詳しくはHPをご参照ください。http://www.takatsuki-kankou.org/index.html)もいらっしゃいますよ。阪急高槻市駅南側エリア、天気の良い日の散策におすすめコースです。ぜひお越しくださいね!
ではみなさん、また。
☆データ☆
〇高山右近を偲ぶ施設:高槻城址公園、カトリック高槻教会、しろあと歴史館など
〇場所:阪急高槻市駅下車 徒歩5~10分
※経路はgooglemapが選んだルートで、最適ルートと異なる場合があります。
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この記事へのコメント(2)
sugar2016年4月25日 20:52
歴史に疎い私でもすごく楽しく読ませてもらいました。へ〜、ほ〜、といいながら。軍師官兵衛、見てました。あ、高山右近は生田斗真くん、そうそう出てきてたわと思い出し、ストーリーと人物が今つながりました。
はっつー2016年4月26日 09:40
sugarさん、おはようございます(・ω・)ノ高山右近役、生田斗真さんでしたか。めちゃめちゃ男前ですね!実は私、大河ドラマ、なかなか観られないんですよ〜(ーー;)。でも、アーカイブで観る事が出来ますので、近々、軍師官兵衛観てみます!