寺町に行こう
阪神尼崎駅から南へ徒歩5分のところに11箇所の寺(本興寺・全昌寺・広徳寺・甘露寺・法園寺・大覚寺 長遠寺・如来院・専念寺・善通寺・常楽寺)が集まる「寺町」
尼崎城を築城した大名戸田氏鉄が城下町を作るにあたって、散在していた寺院を集めたため、それぞれのお寺がまとまっていていて、全て徒歩でまわっていただけるという全国的にも珍しいエリアです。
城下町の防衛のために大建築の寺院をおいたとも考えられています。
周辺の景観への配慮はやはり京都にはかないませんが、国の指定文化財を有する寺院もあり、ここ数年間で観光地としても注目を集めるようになりました。
全昌寺の西隣にあります 本興寺
室町時代1420年(応永27年)創建、法華宗(本門派)の古刹です。
開山堂は、国指定文化財。1466年の建立です。唐様二重扇垂木入母家撞木造りの建物は、鎌倉以西にはない豪華なもので、天井に書かれた籠絵や内陣の極彩色の模様が鮮やかである。また、安置されている、創立者の日隆聖人木像は、聖人が70歳のとき、堺の佛師浄伝に刻ませ、自ら開眼されたもので桧寄木造りで同じく国指定文化財です。開山堂は1963年解体修理されました。
開山堂の御霊水は良質で、尼崎住民の唯一の飲料水として「金水」と呼ばれ、1916年に水道が敷設されるまで市民の貴重な飲料水として親しまれました。
一度沸かしてお飲みくださいとのことです。
鐘楼は兵庫県指定文化財。阪神・淡路大震災の修復の際、天文年間の建物であることが判明しました。朝夕に梵音を響かせ、除夜の鐘でも有名です。
国指定文化財、方丈は1548年の建立です。1617年に現在地に移転し、大規模な修復が行われました。書院造りの様式は古来、「客殿」と称され、絵画、襖絵群は1980年解体処理、創建当時の姿に復元されました。
方丈の内部は普段見ることはできません。
方丈の小堀遠州の作と伝えられる枯山水の築庭です。本堂屋根瓦の流れを滝に見立て、幽玄の景を偲ばせます。
伏見宮家や尼崎歴代城主の接待所としても使われた、壁画や襖絵、畳の間も広くて立派なものでした。
国指定文化財、三光堂には、三光天使、鬼子母神、十羅刹女、三十番神が祀られています。虹梁、木鼻、手狭、蟇股、欄間の彫刻は桃山建築の特色を現しています。
宝物殿。一階ホールには白髪一雄画伯の「皆応供養」の作品、上田秦江画伯の「一天四海運」の作品が飾られています。数珠丸(日蓮大聖人御所持の刀)兵庫県指定文化財の禁制や銅鐸を始め、ご本尊、法宝物、絵画、漆器、茶碗、屏風などを所蔵しています。毎年11月3日の「虫干会」の際に公開され、たくさんの方が訪れます。
1582年、本能寺で織田信長が明智光秀に倒されたとき、遠征先から急いで戻ってきた秀吉は途中軍勢をはなれ、智方の武将に追われて逃げ込んだというお寺です。そこで髪をそって僧に化けて台所で味噌をすっていた僧の中にまぎれこみ、追っ手から逃れたといいます。
そのときにつかったというすり鉢とすりこぎが広徳寺に伝わっています。
さらに少し西へ移動すると甘露寺
1771年寂誉上人代に信者岸田屋浄順の請願によって城主松平遠江守は常行念仏三昧道場の許可を与えました。それ以来、今日に至るまで別寺念仏会を修行しています。
1991年、桃山時代の様式を取り入れて改築された本堂、西方浄土極楽鳳停止殿の屋根の凰です。
法園寺
境内には五輪塔があり、秀吉から九州での失策の責任を取らされ切腹を命じられた北陸の武将 佐々木成政の墓と伝えられています。
成政は富山県で治水に尽力したり、真冬の北アルプス越えという離れ業を成し遂げたりしたそうです。
寺宝として後陽成天皇の直筆の和歌、「なき人のかたみの雪やしぐるらん 夕の雨に途はみえねと」と一首の掛け軸などがあります。
ここでいったん引き返し、北側の路地にはいります。
常楽寺
大物より寺町に移されました。
ご本尊は阿弥陀如来ですが、津田宗博という豪族が寄進したと伝えられています。お墓が常楽寺に残っています。
善通寺
善通寺は阪神間で唯一の時宗教のお寺。
赤レンガの塀が特徴です。寺町の中でも少し奥まったところにあるので異次元のようですね。
寺内には後醍醐天皇の皇子、尊良親王が土佐に流されたとき、お供をした秦武文の碑が建てられています。
妃を土佐に迎えるとき尼崎で海賊のために奪われ、ついに自決した南朝方の忠臣悲話が伝えられています。本堂は尼崎指定文化財です。
八角堂には首だけのお地蔵さんがまつられていて、「首なし地蔵」として信仰を集めています。
なぜ首だけなのに首なし地蔵というのかといいますと、境内の張り紙によると
300年以上前善通寺境内に地蔵尊がお祭りされていましたが、不届きものが首から上をちぎって庄下川に捨ててしまいました。
それから以後首無地蔵尊と呼ばれ参拝者が絶えることがありませんでした。
ある日、漁師さんの網にお地蔵さんの首がかかりました。
家に持ち帰り朝夕おまいりをしていたところ、夢枕にあらわれた地蔵菩薩が
「私は善通寺の地蔵です。元に戻してもらえれば、首から上の病をなおしましょう」とお告げがあったので
善通寺の住職にこのことを申し出て首を元に戻すと、胴と一致しました。
地蔵堂を建立して御尊体を奉仕されました。戦災によって地蔵堂は消失しましたが、首から上は無事で残り、
現在の八角堂の中にお首を祀ったということです。
路地を抜けると、大覚寺
2月3日の節分祭の豆まき、「大覚寺狂言」で有名です。
聖徳太子が百済の高僧・日羅に命じて長洲浦に造らせた「燈炉堂」が起源であると伝えられています。鎌倉末期から港湾都市尼崎の発展に大きな貢献をし、尼崎城が構築されるまでは大覚寺城として活躍しました。
中世尼崎を知るうえで欠くことのできない「大覚寺文書」は、兵庫県の指定文化財です。当時の境内や伽藍配置の記載や長洲荘領主鴨御祖社社家や荘園代官、沙汰人らが同寺の安泰を保証した証文があります。
大覚寺のお向かいの通りには「寺町名物 たこやきの岡」があります。
なんと14個200円なり。小ぶりでパリッと焼き上げたなつかしいオーソドックスなたこやきです。
こういうところにたこ焼き屋さんがあるというのが尼崎らしいですね。
長遠寺
本堂と多宝塔は国の重要文化財に指定されています。
本堂は入母屋造、本瓦葺です。柱の上の組物や軒屋根の傾斜などに桃山時代の建造美をうかがうことができます。
1982年の解体修理によって、1623年にこの地に再建されたことが判明しました。
多宝塔も棟札に慶長12年(1607年)とあり移築されたものと考えられています。
塔身は円形で軒そりの形がよく組物や蟇股などの形態には桃山時代の特徴がよく表れています。
客殿・庫裏・鐘楼は県の指定文化財です。
その他室町時代の銘をもつ鰐口、雲板、裏書に永禄8年(1565年)と記された絹本著色涅槃図、長遠寺文書、
紙本着色日蓮大聖人註画讃が尼崎市の指定文化財に指定されています。
如来院
古くは「神崎釈迦堂」といい創建は神崎の地です。
1327年の石造物で笠塔婆という供養等があります。笠の部分は失われています。
銅鐘とともに、尼崎市の文化財に指定されています。
また鎌倉時代法然上人が神崎に立ち寄ったとき、
極楽浄土に往生することを願って神崎川に入水した5人の遊女の髪がまつられています。
江戸時代に現在の寺町に移転しました。
専念寺
寺町の一番西にある赤い門が特徴の通称「あまもんさん」と呼ばれるお寺です。
平安末期の武将、平重盛の菩提所ということで朝廷から山門を赤くすることを許可されました。
重盛は仏法に帰依深く、冷静沈着な理想的な人間として平家物語に描かれています。