沿線へお出掛け
イーブルイデアと行く 平清盛ゆかりの地 河原町編
清盛、いつの間にか、こんな土産もんになっとったんや。
悔しいけど、これがまたうまいんやわ~
「イーブルイデアのふりかけができますように」という願いがかなうように
「ポルポローネ」って3回唱えながら食べたで。
ワシの戦闘隊員たちもほんまによーやってくれてるねんけど
清盛の部下たちの心のつかみ方には感心するわ。
朝寝坊しても見逃して寝かせてやったり
おもんないこと言うて、滑ってもわらったったり
家族が訪ねてきたら、ごっつ~偉いヤツのように扱っててんて。
平安時代にこんな理想の上司みたいな奴おったってすごない?
まぁ、ワシもまけたかって、戦闘隊員をしばいたりはせえへんで。
次なる魔人のパワーアップの研究にいそしむだけじゃ!
京都・河原町周辺のゆかりの地では清盛のルーツと、後白河上皇と最後はなんで仲たがいしてもかにせまるで。
ことわざばっかりも飽きるから、今日は四字熟語でいこか~
六波羅は平家の本拠地で約2500屋敷があったそうや。
六道珍皇寺には冥界への入口があったと言われてるし、
なんや、ヒーローもんの悪役のボスのアジトみたいやなってワシが言うなってな~
清盛の財力と武力を利用して院政を進めたかった「海千山千」の後白河上皇と出世したかった「先見之明」のある清盛
どっちも「合理主義」で、古い慣習にとらわれなかったとこも共通してて、賢かったんやな~
清盛は後白河上皇のために蓮華王院本堂(三十三間堂)を寄進したり、「新熊野神社」まで造営したんや。
後白河上皇は「今鏡」でそのこと絶賛されてるで。
清盛の妻時子と、後白河天皇の妻滋子は姉妹、つまり清盛と後白河上皇は義理の兄弟でもあったわけや。
上皇50歳の宴では院の御所「法住寺」で清盛の孫、維盛が舞楽を奉るなどして平家一門で喜ばせたそうや。
そやけど、間に入ってくれる滋子が亡くなってからは、2人の関係は悪なってくるんや。
自分よりすごいやつが出てきたら、認めるか、足引っ張るかするやろ。
いつの時代も「権謀術数」がうずまいとるがな。
元々、利用したろと思ってたやつやったら余計ちゃうか。
上皇は人事で牽制したり、平家討伐未遂事件(鹿ヶ谷事件)にかかわったり。
清盛が息子と娘を亡くしたところに、さらに領土取り上げたり、平家を無視するような人事を勝手にすすめたりしたんや。
ここまでされたら清盛がいくら人間できとったとしても「怒るで しかしっ!怒髪衝天」になるんちゃうか。
「治承三年のクーデター」「福原遷都」「安徳天皇即位」につながるんや。
ワシは、マナブンジャーがそのうちマサルに愛想つかしよるのを「虎視眈眈」と待ってるんやけどな。
だ~れ~や「天網恢恢」というからええ加減やめとけ、言うてんのは。
次回のレールウェイフェスティバルのマナブンジャーショーは
イーブルイデアの「捲土重来」やでっ。
また日にちが決まったらこのブログ乗っ取って宣伝するから見に来てな~
<河原町周辺の平清盛ゆかりの地>
八坂神社
境内には清盛の父 平忠盛ゆかりの灯篭があります。
白河法皇が寵愛していた祇園女御のもとに向かう途中で、鬼のようなものに遭遇しましたが、
忠盛だけがその正体が人間だと見抜きました。法皇は褒美として、祇園女御を下賜したといいます。
祇園女御はその時法皇の子を身ごもっており、その子が清盛だったという説と、母を祇園女御の妹とする説があり、
大河ドラマでは後者の説を採用しています。
円山公園の近くは、祇園女御の邸があった場所とされており、供養塔、祇園女御塚があります。
長楽寺
平清盛の娘徳子が、平家滅亡後出家したお寺。
壇ノ浦の戦いで息子安徳天皇と母(清盛の妻)時子と入水しましたが、一人だけ源氏方によって助けられました。
大原の「寂光院」で平家一門の菩提を弔いながら余生を過ごしました。
建仁寺
京都最古の禅寺。
境内の南側にある勅使門は、平清盛の長男平重盛、あるいは平清盛の異母弟・平教盛の六波羅邸にあった門を移築したものと伝えられています。
柱や扉には、矢の痕が残っているため「矢立門」「矢の根門」とも呼ばれる。
法住寺
院の御所があった寺院。後白河法皇が木曽義仲により襲撃された際に焼失しました。
その際に天台座主の明雲大僧正が矢に倒れ、法皇は九死に一生を得たことから身代り不動王として篤く信仰するようになりました。
後白河天皇陵が隣接しています。
法住寺が焼失した後は、長講堂で過ごしました。
厳島神社
清盛が安芸宮島から勧請したと伝えられており、祇園女御が祀られています。
高倉宮跡
治承4年(1180)に諸国の源氏に平家追討の令旨を発した以仁王の邸宅跡。
若一神社
平清盛が熊野信仰をもとに造営。
近くには祇王と仏御前の立場が入れ替わった舞台になった清盛の邸があり、六波羅と並んで平家一門の本拠地でもありました。
境内には、清盛手植えの楠や清盛ゆかりの神水も。
高松神明神社
保元の乱で、後白河天皇の本拠地となりました。
清盛、いつの間にか、こんな土産もんになっとったんや。
悔しいけど、これがまたうまいんやわ~
「イーブルイデアのふりかけができますように」という願いがかなうように
「ポルポローネ」って3回唱えながら食べたで。


ワシの戦闘隊員たちもほんまによーやってくれてるねんけど
清盛の部下たちの心のつかみ方には感心するわ。
朝寝坊しても見逃して寝かせてやったり
おもんないこと言うて、滑ってもわらったったり
家族が訪ねてきたら、ごっつ~偉いヤツのように扱っててんて。
平安時代にこんな理想の上司みたいな奴おったってすごない?
まぁ、ワシもまけたかって、戦闘隊員をしばいたりはせえへんで。
次なる魔人のパワーアップの研究にいそしむだけじゃ!


京都・河原町周辺のゆかりの地では清盛のルーツと、後白河上皇と最後はなんで仲たがいしてもかにせまるで。
ことわざばっかりも飽きるから、今日は四字熟語でいこか~
六波羅は平家の本拠地で約2500屋敷があったそうや。
六道珍皇寺には冥界への入口があったと言われてるし、
なんや、ヒーローもんの悪役のボスのアジトみたいやな
・・・・ってワシが言うなってな~
・・・・ってワシが言うなってな~
清盛の財力と武力を利用して院政を進めたかった「海千山千」の後白河上皇と出世したかった「先見之明」のある清盛
どっちも「合理主義」で、古い慣習にとらわれなかったとこも共通してて、賢かったんやな~
清盛は後白河上皇のために蓮華王院本堂(三十三間堂)を寄進したり、「新熊野神社」まで造営したんや。
後白河上皇は「今鏡」でそのこと絶賛されてるで。


清盛の妻時子と、後白河天皇の妻滋子は姉妹、つまり清盛と後白河上皇は義理の兄弟でもあったわけや。
上皇50歳の宴では院の御所「法住寺」で清盛の孫、維盛が舞楽を奉るなどして平家一門で喜ばせたそうや。


そやけど、間に入ってくれる滋子が亡くなってからは、2人の関係は悪なってくるんや。
自分よりすごいやつが出てきたら、認めるか、足引っ張るかやろ。
いつの時代も「権謀術数」がうずまいとるがな。
元々、利用したろと思ってたやつやったら余計ちゃうか。
上皇は人事で牽制したり、平家討伐未遂事件(鹿ヶ谷事件)にかかわったり。
清盛が息子と娘を亡くしたところに、さらに領土取り上げたり、平家を無視するような人事を勝手にすすめたりしたんや。
ここまでされたら清盛がいくら人間できとったとしても「怒るで しかしっ!怒髪衝天」になるんちゃうか。
清盛の行動で息子の重盛やいろんな人の心の柱が折られてきたちゅうのも事実や。
予算が限られてるワシの策は、「心の隙間」につけこむことやねんけど、これ以上は「企業秘密」やで。
清盛の行動で息子の重盛やいろんな人の心の柱が折られてきたちゅうのも事実や。
予算が限られてるワシの策は、「心の隙間」につけこむことやねんけど、これ以上は「企業秘密」やで。
それから「治承三年のクーデター」「福原遷都」「安徳天皇即位」につながるんや。
そんなわけでワシは、マナブンジャーがそのうちマサルに愛想つかしよるのを「虎視眈眈」と待ってるんやけどな。
だ~れ~や「天網恢恢」いうからええ加減やめとけ、言うてんのは。
だ~れ~や「天網恢恢」いうからええ加減やめとけ、言うてんのは。
次回のレールウェイフェスティバルのマナブンジャーショーは
イーブルイデアの「捲土重来」やでっ。
また日にちが決まったらこのブログ乗っ取って宣伝するから見に来てな~
<河原町周辺の平清盛ゆかりの地>
八坂神社
境内には清盛の父 平忠盛ゆかりの灯篭があります。
白河法皇が寵愛していた祇園女御のもとに向かう途中で、鬼のようなものに遭遇しましたが、
忠盛だけがその正体が人間だと見抜きました。法皇は褒美として、祇園女御を下賜したといいます。
祇園女御はその時法皇の子を身ごもっており、その子が清盛だったという説と、母を祇園女御の妹とする説があり、
大河ドラマでは後者の説を採用しています。
円山公園の近くは、祇園女御の邸があった場所とされており、供養塔、祇園女御塚があります。




長楽寺
平清盛の娘徳子が、平家滅亡後出家したお寺。
壇ノ浦の戦いで息子安徳天皇と母(清盛の妻)時子と入水しましたが、一人だけ源氏方によって助けられました。
大原の「寂光院」で平家一門の菩提を弔いながら余生を過ごしました。
京都最古の禅寺。
境内の南側にある勅使門は、平清盛の長男平重盛、あるいは平清盛の異母弟・平教盛の六波羅邸にあった門を移築したものと伝えられています。
柱や扉には、矢の痕が残っているため「矢立門」「矢の根門」とも呼ばれています。


法住寺
院の御所があった寺院。後白河法皇が木曽義仲により襲撃された際に焼失しました。
その際に天台座主の明雲大僧正が矢に倒れ、法皇は九死に一生を得たことから身代り不動王として篤く信仰するようになりました。
後白河天皇陵が隣接しています。
法住寺が焼失した後は、長講堂で過ごしました。




厳島神社
清盛が安芸宮島から勧請したと伝えられており、祇園女御が祀られています。
高倉宮跡
治承4年(1180)に諸国の源氏に平家追討の令旨を発した以仁王の邸宅跡。
若一神社
平清盛が熊野信仰をもとに造営。
近くには祇王と仏御前の立場が入れ替わった舞台になった清盛の邸があり、六波羅と並んで平家一門の本拠地でもありました。
境内には、清盛手植えの楠や清盛ゆかりの神水も。
高松神明神社
保元の乱で、後白河天皇の本拠地となりました。
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この記事へのコメント(2)
きまぐれ野郎2012年2月22日 19:32
イーブルイデアさん、レールウェイフェスティバルのショー頑張って盛り上げて下さいね!ぼちぼち京都を攻めようかな
ゆかり2012年2月22日 20:55
きまぐれ野郎さん
順調に源平ゆかりの地めぐりされていますね。
京都編も楽しみにしています~
マナブンジャーショーお客さん増えるといいです(笑)